前原騒動(萩の乱)
一誠の元に集まった兵は、わずか約200人…。
明治9年(1876年)10月27日、藩校明倫館に200人を集め、
そこに集まった旧士族たちを殉国軍と名付けた。
10月28日挙兵を宣言。これが萩の乱である。
再び海路東京へ。しかし、捕らわれ処刑。
萩での戦闘で、一時は500人を超えた殉国軍を壊滅した。
一誠は、再び漁船で山陰の海を東京へ目指したが、暴風を避けるために寄った※宇龍港(うりゅうこう )近くで捕らえられた。
12月3日、萩に護送された一誠は、弟と共に処刑された。享年43歳。
父佐世 彦七(させ ひこしち)は、自分の息子が関係した責任をとり、自刃した。
※ 宇龍港:現在の出雲市内に存在
一誠は、武士として、萩の代表として集まった数わずか200人という少ない人数でしたが、
まとめ上げる力を持っており、誠実な人物であることが分かる。
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